DNAR

e0156318_16464862.jpg・89歳、肺炎
 たとえば、あなたが入院患者Aさんの主治医になったとしましょう。Aさんは89歳の男性で、鼻カニューレで3L/分の酸素投与を必要とする右肺の大葉性肺炎がありました。よくよく話を聞いてみると、最近誤嚥が多くなり、トイレやお風呂で転ぶことが多くなったとのこと。しかしながら、Aさんは新聞を毎日読めるくらいに認知力はありそうです。入院に付き添ってきた家族はAさんの妻、子どもを含めて4人。Aさん本人と合わせて5人に病状説明をすることになりました。

主治医であるあなたが病状説明のために部屋に入ると、
大丈夫!しっかり治して早く家に帰ろうね!
と家族さんがAさんを励ましている姿が真っ先に目に入りました。

「――はじめまして、主治医の●●です。」

さて、こういった高齢の患者さんや家族に対して、医療従事者の皆さんは延命治療や心肺蘇生の話をどのように切り出していますか?あるいは、そもそもそんな話を切り出すべきなのでしょうか?


・はじめに
 そもそも、なぜ病気を治そうと意気込んで入院してきた患者さんに延命治療や心肺蘇生の話をするという意見が出るのでしょうか。それは、最も起こりうる最悪の事態を考えなければならないからです。医療とは、こうあって欲しいという理想的な経過と、万が一でも起こりうるだろう悪い事態の両方を考えておく必要があります。それは内科であろうと外科であろうと同じです。入院してきた当初、ただの大葉性肺炎であったとしても、この先どのような経過をたどるかは神様でない限り分かりません。誤嚥性肺炎が絶飲食と抗菌薬である程度よくなるだろうと思っていても、頭のどこかではこのまま重症の病態に陥る可能性も考えなければなりません。特にAさんのように90歳近い高齢の患者さんでは、入院した日の夜に酸素投与量が追い付かなくなり人工呼吸器を要する事態になることは十分ありうるわけです。もっとひどい場合、入院当日の夜に心肺停止状態に陥ってしまうこともあるかもしれません。

 病院施設、医療従事者が最も懸念する問題として「急変時の方針が決まっていない高齢患者さんで主治医が早急に対応できない状態」があります。本人の意思表示が不明で、家族と十分な議論をする余地がないまさに“急変”である場合は、疑わしきは治療すべきという観点から心肺蘇生を含め全力で患者さんの救命にあたります。


e0156318_16522724.jpg・DNARをとる
 私の嫌いな言葉に「DNARをとる」という言葉があります。医療従事者であればほぼ全員の人がこの言葉の意味をご存知のことと思います。「DNAR」というのは「Do Not Attempt Resuscitation」の略で、癌の終末期や高齢者などの患者さんが心肺停止に陥った際に心肺蘇生を行わないという意味です。そのため、「DNARをとる」という言葉は「有事の際に心肺蘇生を希望しないという患者さんサイドからの意思表示を得た」ということを意味します。

 DNARという言葉は、もともと「DNR」でした。「Attempt(試みる)」という単語がついていなかったのです。AHAガイドライン2000では、「DNR」という言葉は蘇生する可能性が高いのに蘇生しないという印象を持たれやすいという考えから、「Attempt」が付け加えられました。すなわち、蘇生に成功することが少ない中では蘇生処置を敢えて試みないという患者さんサイドに与える印象を緩和したものです。

 繰り返しますが、私は「DNARをとる」という言葉があまり好きではありません。「とる」ことを目的とした言葉のような気がしてならないからです。かといって、必要十分条件を満たす言葉は存在しないようにも思います。箕岡真子先生の言う「蘇生不要指示」という言葉はこれらの問答を広い視野にみた無難な用語なのかな、とも思います。


・十字架を背負う
 DNARの意思表示を患者さん本人あるいは患者さんの家族から得るのは基本的に主治医の役割です。もちろんチーム医療をおこなっている場合、複数の医療従事者が積極的に介入をして延命治療について皆で話し合うことは大切です。しかしながら、心肺蘇生に関して病院側と患者側に何らかのトラブルが生じた場合、法的に最も重く責任がのしかかるのは病院と主治医であることは否めません。特に昨今は病院と主治医の双方が被告になることもありうるため、その流れは顕著です。

 また、患者さんの臨終に際して「本当に延命しなくて正解だったのだろうか」と自問自答することは苦しいものです。多職種の介入によって背負う十字架の重みを共有し合えるとはいえ、多くの場合、患者さんと家族さんは主治医を頼ってくるため、生命の最終決定ボタンは主治医が押さなければならないのが今の日本の現状です。「あのときああすれば、あと1年は生きられたかもしれない」と夜な夜な苦しむことのある医師も少なくないのでは、と思わずにいられません。


・現場の問題点
 患者さん本人に説明をすることが原則ではありつつも、患者さんに延命治療や心肺蘇生について直接話ができることはそう多くありません。その理由は、日本人の死生観が不可侵的なものとして扱われてきた歴史があるからかもしれません。今から闘病に臨もうとしている人に対して死生について話すことは、日本人の儒教由来の死生観に鑑みるとタブーに近いものがあります。肺癌や特発性肺線維症のような慢性疾患であれば、患者さんとの間にラポールを構築して終末期をどうするかと言う話し合いが直接できるかもしれませんが、重症肺炎などの急性疾患の場合、矍鑠(かくしゃく)としている方であればあるほど直接話しにくいと感じる医師は多いのではないでしょうか。

 患者さん本人の意思こそが全てに優先されるものですし、そうあるべきだと思われがちですが、それを毎回確実に実践できている医師というのは極めてまれだろうと感じます。

 また、DNARの意思表示のある患者さんが予測できない医学的問題(心筋梗塞、脳出血、消化管出血など)を起こした場合、DNARだから何もしないというのはありえないわけで、結果的にDNARの意思表示がある患者さんが挿管・心肺蘇生・気管切開・寝たきりにまで至るケースというのは現実的に起こりうるわけです。原疾患によって起こった心肺停止であったとしても、癌の脳転移による脳出血なのか、高血圧による脳出血なのか即座に判断できないケースもあります。そのため、救命しなければならないと考えられるグレーゾーンは無数に存在します。


・おわりに
 いつだったか、ARDSの患者さんと家族に病状説明をしたとき、患者さん自ら「いかなる疾患においても心肺停止については延命を希望しない」という申し出をしてきたことがありました。実はその患者さんは元医療従事者だったので、普段から自分がどういった事態になった時にどこまでして欲しいかを家族と話し合っていたようなのです。

 私たち医療に携わる人間は、延命治療を受けた患者さんをたくさん見てきました。そのため、自分はこうして欲しいという確固たる意思を持っている人も多いでしょう。一般の方々にとって、短時間で生命の決断を下すことは非常に難しいです。とかくその相手が家族だったりすると、なおさらでしょう。子どものうちから、とまではいいませんが、日本における死生教育のあり方が解決策の1つなのかもしれませんね。


by otowelt | 2013-12-30 00:39 | コラム:患者さんへの説明

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